2017-11-02
鎌倉案内版(Kamakura)
鎌倉のレストラン 2017/10/30
当日は「鎌倉歴史文化交流館」の帰りに古我邸に行きました。
【古我邸の紹介】
古我邸は、鎌倉に別荘文化が花開いた1916(大正5)年、三菱合資会社(後の三菱財閥)の専務理事兼管事(管事=仕事を取り仕切る人、支配人)をしていた荘清次郎(しょう・せいじろう)の別荘として建てられました。
設計を担当したのは、桜井小太郎(さくらい・こたろう)氏。旧三菱銀行本店や旧丸の内ビルディングを設計。日本の近代建築史にその名を残す名建築家が、15年の歳月をかけ完成させたのが古我邸でした。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分45秒、相模湾を震源とした大地震が発生。鎌倉にも甚大な被害をもたらした。
9割の建物が倒壊、市内はガレキ野原と化した。その中で残ったのが古我邸だった。
損壊を免れた奇跡の建物は、その後、日本の歴史と大きく関わりをもつことになる。
まず受け入れたのが、震災をきっかけに東京から逃れてきた政治家たち。
第27代内閣総理大臣・濱口雄幸(はまぐち・おさち)、第34、38、39代内閣総理大臣・近衛文麿(このえふみまろ)が、古我邸に居を構えた。
そして戦後には、GHQに接収され、将校クラブとして使われた。
※以上はやまだ ひさえさんの記事を参照させていただきました。 ありがとうございました。
(地図)

(メニュー)

(正面の庭)


(裏庭のテラス)




(レストランの入り口)

当日は「鎌倉歴史文化交流館」の帰りに古我邸に行きました。
【古我邸の紹介】
古我邸は、鎌倉に別荘文化が花開いた1916(大正5)年、三菱合資会社(後の三菱財閥)の専務理事兼管事(管事=仕事を取り仕切る人、支配人)をしていた荘清次郎(しょう・せいじろう)の別荘として建てられました。
設計を担当したのは、桜井小太郎(さくらい・こたろう)氏。旧三菱銀行本店や旧丸の内ビルディングを設計。日本の近代建築史にその名を残す名建築家が、15年の歳月をかけ完成させたのが古我邸でした。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分45秒、相模湾を震源とした大地震が発生。鎌倉にも甚大な被害をもたらした。
9割の建物が倒壊、市内はガレキ野原と化した。その中で残ったのが古我邸だった。
損壊を免れた奇跡の建物は、その後、日本の歴史と大きく関わりをもつことになる。
まず受け入れたのが、震災をきっかけに東京から逃れてきた政治家たち。
第27代内閣総理大臣・濱口雄幸(はまぐち・おさち)、第34、38、39代内閣総理大臣・近衛文麿(このえふみまろ)が、古我邸に居を構えた。
そして戦後には、GHQに接収され、将校クラブとして使われた。
※以上はやまだ ひさえさんの記事を参照させていただきました。 ありがとうございました。
(地図)

(メニュー)

(正面の庭)


(裏庭のテラス)




(レストランの入り口)

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